3.11を迎えて

2013.03.11  清課堂の日々

2013年3月8日現在:亡くなられた方 15881人、行方不明の方 2668人。
2013年2月7日現在:避難・転居者31万5,196人

(女川町の高台にある復興村の案内:写真をクリックすると拡大します。)
311以降、私は2011年7月、9月、2012年2月、7月と4回にわたって津波の被災地に足を運びました。その際、現地でのボランティア活動を中心に撮影など、宮城県塩釜から岩手県大船渡までの沿岸部を広く回りました。京都で普段の仕事している傍らも、ボランティア団体「SWTJ(Solidarity with Tohoku, Japan)」の事務局長として被災地支援活動を続けています。一個人としても企業としても車両や物資、資金を微力ながら出来うる限りに支援に費やしました。

この2年間、本当にあっという間に月日が流れてゆきました。私はかれこれ15年ほど地元の消防団員を勤めていて人命救助や自然災害に対する教育を受けてきましたが、津波の痕を目の当たりにするとこれまでの災害の概念を根本から覆されました。自分が生きている時間の狭間でこのような不幸な大災害が起こったことは、なにかしらの使命を与えられたかのように感じました。小学校3年のときに住居兼店舗を火災で失ったことが今も心のもやもやしたものとなっていて、それが私の原動力となってか支援活動に突き動かされたように思います。

(広田半島広田町の学校付近。写真をクリックすると拡大します。)

日本は広い

学校では、日本のことを「ちっぽけな島国」と教えられていました。この国は小さい国という概念がずっと私の頭にありました。でも、実際はずっとずっと大きい国でした。
車を運転して京都から岩手県までの道のりは、かなり遠くて長い。距離も遠いですし、文化の面でも言葉の面でも関西と東北はまるで別世界と言っても過言ではないと思います。九州からならなおさらのことでしょう。東北に深く関わっている私でさえも強く強く意識をしていないと、かの地のことを忘れてしまいそうになります。同じ日本ですが、確かに遠い。

しかし今出来るだけ早く、多くの人に被災地へ行って自分の目で見て、耳で聞いて欲しい。観光でも構わないと思っています。例えば震災ガレキ処理についても、ガレキの山脈を直接見、現地の悲痛な声を直接聞いている私と、手に入る情報だけで判断せざるを得ない周囲の人とは考え方がやっぱり違う。自分の目で耳でぜひ確かめて欲しい。その上で、これからの日本をどうして行くのかそれぞれが考え行動すればよいと思います。これから私は、まだじっくりと見ていない福島の今を自分で確かめたいと思っています。

(東松島市矢本にある大規模な瓦礫山脈:写真をクリックすると拡大します)

出会い

この2年間、震災をきっかけとして沢山の人と出会いました。想いを同じくするボランティアたち、東北の現地にいまもお住まいの被災された方々、直接被害を免れたものの現地で暮らす方々、関西へ避難されている方々
報道関係、大学の研究関連、消防士・消防団員。東北でも京都でも、よき出会いに恵まれました。そして多くのことを教わりました。人が生きているということ、人が死ぬということ。本当に大変だった、今も悲しい思いに包まれている、ボランティアをして良かった、などといろいろな立場から震災当時の話を聞かせていただいております。自分の子供たちをはじめ、これを日本の未来へ教訓として語ってゆきたい、繋いでゆきたいと思います。

 

3月9日の夜に開催した、やまなかかづこ個展レセプションパーティー。宮城県南三陸町のワカメ、昆布、海苔をふんだんに使った、ささやかな手料理を提供させていただきました。現地のワカメ漁師さんから送っていただいたもので、東北の暮らしを思い描きながら作りました。超満員となったパーティでは、沢山の展覧会来場者に味わっていただきました。今時分に出来ることはなんだろうか、これを模索しあがいていた2年間だったかもしれません。

2013年3月11日

山中 源兵衛