鼎談:荻野NAO之×山本雅二×山中源兵衛「失敗の財産」

2016.05.07  トークイベント 荻野NAO之

2016年4月、KYOTOGRAPHIE(京都国際写真祭)のサテライトイベント『KG+』の参加展覧会として、荻野NAO之写真展『閒 会』(まかい)を、清課堂にて開催しました。展覧会期間中には、さまざまなテーマのもとゲストを迎え、荻野NAO之氏とのトークイベントを全5回開催。そこで繰り広げられた話題を振り返り、荻野NAO之という作家の思考や、その根底にある世界に迫ります。

本展覧会では、作品の世界観をより際立たせるため、錫を用いたオリジナルの額縁を使用しています。そこで、第3回目のトークイベントは、額縁制作を担当したガクブチのヤマモト四代目店主・山本雅二(やまもと まさじ)氏と、清課堂当主・山中源兵衛を交えた鼎談を行いました。額縁が完成するまでの道のりは、どんなものだったのか。経験から得た職人の目線は、どんなものをとらえているのか。

 

荻野NAO之×山本雅二×山中源兵衛

 

作品と空間の “間” にある存在

荻野NAO之(以下 荻野)

今回の展示『閒 会』は、2016年KYOTOGRAPHIE(京都国際写真祭)のサテライトイベント、『KG+』の参加展覧会として開催しています。会場となる清課堂さんのギャラリーは、日本家屋ならではの造りを活かした、独特の空間。そんな空間と僕の作品の“間”をつなぐために、額縁にもこだわりました。オリジナルの額縁は、ガクブチのヤマモトさんと清課堂さんの共同制作です。そこで今回のトークイベントでは、ガクブチのヤマモト四代目店主・山本雅二さん、清課堂七代目当主・山中源兵衛さんとお話ししたいと思います。よろしくお願いします。

山本 雅二(以下 山本)

今回、清課堂さんと荻野さんとのご縁がありまして、額縁製作に関わらせていただきました。ガクブチのヤマモト代表、山本雅二と申します。普段ものづくりばかりしているもので、こうやって人前で話すのはほぼ初めてです。どうぞよろしくお願いします。

山中 源兵衛(以下 山中)

改めまして、山中源兵衛と申します。清課堂の七代目当主にあたります。よろしくお願いします。
今回、清課堂にある和風ギャラリースペースで、荻野さんに展示をしてもらっています。じつは第1回KYOTOGRAPHIE(2013年)の頃から、清課堂を会場に展覧会をしたいと、実行委員会からオファーをいただいていたんです。でも、うちは金属工芸の専門店ということで、当初は金属に関連したもの以外の展示はなかなか考えらず、お断りしていました。ただ、今回の荻野さんの作品には、一部に錫が使われている。そんなつながりもあって、清課堂初めての写真展覧会として開催してもらうことになりました。写真のどの部分に錫が使われているのかというお話は、のちほどご本人からお話があるかと思います。荻野さんとはもう知り合って3年ほど経ちますが、出会った当初はうちで展覧会をしてもらうなんて、思ってもみませんでしたね(笑)。

荻野 

そうですね。僕も、清課堂さんは立体物の展示をしているところだという認識でしたので、今回一緒にやらせてもらうのは、ちょっと不思議な気持ちでもあります。

山中 

山本さんとは、お互い目と鼻の先に工房とお店があるにもかかわらず、大人になるまでお会いしたことがありませんでした。歳もひとつ違いなのに。それは、山本さんが大人になるまでは山科のほうにお住まいだったからなんですよね。

山本 

そうなんです。両親が工房で忙しかったのもあって、私は山科で育ちました。店を継ぐことになってから、この街で暮らすようになったんです。山中さんとは、何がきっかけでお会いしたんでしたっけ?

山中 

確か、このあたりの商店街の若手が集まったときでしたよね。

山本 

そうでしたね、寺町通りにある4つの商店街の面々が集まったときでした。近所だったし歳も近くて、なにかと共通の友人もいたりして。でも、一緒にこうやって仕事をしたのは、今回が初めてですね。

山中 

本当に、初めてでしたね。いつか一緒に額縁を手がけたいという思いがあったので、こうやって一緒にやらせてもらえて、うれしいです。

荻野 

お二人に額縁を作っていただくことになった理由をお話ししますと……。以前僕は、写真家は写真さえ撮ればいいと思っていました。撮影して、フィルムやデータがあればそれでOKだと。でも、活動を続けるうちに、気付いたことがありました。それは、作品の見せ方もしっかりと考える必要があるんじゃないかということ。それからは、展示の内容に合わせて、プリントの手法を変えるようになりました。プリント方法を変えると、写真の雰囲気もがらりと変わることがありますからね。そうやって考えていくうちに、今度は展示の方法も意識するようになったんです。

写真の展示には、アルミ素材のプレーンな額縁を使うのが一般的。シンプルなものは作品の邪魔にもならないので、使いやすくて選ぶ作家さんが多いんです。僕としては、オーソドックスなものを使っておけば文句も言われないだろうと、ある種の逃げ道みたいな感覚ももっていました。ところが今回は、会場が清課堂さんだったので、これまでのスタンダードが当てはまらなかった。日本家屋の空間に、現代アートで使われるような、シンプルで無機質なフレームを持ってくると、どうしても浮いてしまうんです。僕の写真とギャラリーの空間が、つながらなくなってしまって、困ったなと思った。そのときちょうど、源兵衛さんから「額はどうしましょうか」とお話をいただいたので、制作をお願いすることになりました。

山中 

昔の荻野さんと同じように、私も職人として、ものづくりだけやればいいと考えていた時期があったんです。20代半ばで父から仕事を継いでから、しばらくはそう思っていました。でも、実際にやってみると、それだけではやっていけない。ちょうどバブルが崩壊した直後だったのもあって、やり方の見直しが必要でした。それで、ショーケースを買ったり、ライトの当て方を変えたりして、品物を売るための工夫をするようになったんです。それって、展覧会で写真家さんが展示方法を考えるのと、共通するものがある気がするんですよね。額縁を展示の一部として考えるのも、そのうちのひとつだと思います。

荻野 

たしかに、似た部分がありそうです。2015年の秋ごろに額縁をお願いすることになって、僕はぜひ錫で作ってほしいと言ったんですよね。でもそれは、無理なお願いだったみたいで(笑)。

山中 

荻野さんからお話をいただいてから、山本さんと相談をしたのですが……。錫で額縁そのものを形づくるのは無理だということになりました。錫は、とにかく柔らかいんです。だから、額縁にして壁にかけると、自重で少しずつ変形してしまう恐れがある。直角に折り曲げたり、切り出したり、そもそもそういった加工に向かない素材でもあります。

荻野 

僕は当時、そんなこと知らずに「どうにかして錫でできませんか」とお願いしてしまった。もう、無理難題ですよね(笑)。それで、改めて3人で打ち合わせをさせてもらったときに、「錫は無理です」と伝えられた。でもそのうえで、どんな方法だったら錫を使って額縁をつくれるのか、考えてみたんです。そこで思い浮かんだのが、錫を枠の溝にはめ込む方法。提案をさせてもらうと、お二人の顔が晴れたような気がしたんです。「それならできるかも」という表情に見えて、道が拓けた気がした。あのときはうれしかったですね。

山本 

溝を彫って模様などのアクセントをつける象嵌(ぞうがん)という技法は、額縁制作でよく使う方法なんです。ただ、錫をはめ込むのは初めてのことだったので、できるのかどうか心配な部分もありました。それでもデザイン的にとても面白いと思いましたし、やったことがないからこそ、完成させたいという気持ちが湧きましたね。

山中 

はめ込む錫板をつくる際、錫の厚みを調整しながら伸ばしていく工程で、鎚目(つちめ)と呼ばれる、金鎚のあとを付けていきます。鎚目にもいろいろな種類があるなか、荻野さんは “石目” と呼ばれる鎚目にしてほしいと、要望をくださった。石目は、お店で扱っている、お酒の器などにもよく使われるざらざらした鎚目です。これが、額縁にも合うんじゃないかということで。

荻野 

僕が展示の打ち合わせで清課堂さんに通っていたとき、お店に置いてある器もよく見ていたんです。そのなかの気に入ったお皿の模様が、石目だとうかがっていたので。額縁も、石目で仕上げてほしいとお願いしました。

どうして僕が錫にこだわったというと、外の空間と、中の写真をつないでほしかったから。今回展示している写真は、雁皮を使った非常に薄い和紙にプリントしています。透けてしまうくらい薄いんですよ。光を透過させて、写真に奥行きを出したかったので、この紙を選びました。それほど薄い紙なので、日本画の “裏彩色” という技法を使ったら面白いんじゃないかと思ったんです。裏彩色とは、絹地の裏側からも色を塗ることで、透けて見える色と表側の色が合わさって、独特の風合いに変化するというもの。江戸時代の画家、伊藤若冲さんがよく用いていた技法です。ただ、写真の裏に色を塗るのは難しいので、今回は箔を貼ってみることにしました。日本画にも、裏側に箔を貼る“裏箔”という技法が実際にあるそうで。金箔、銀箔、銅箔、などいろいろな種類があるなかに、錫箔もあった。それで、錫箔を貼ることになりました。これが、最初に源兵衛さんがおっしゃっていたように、写真に錫を使った部分です。

だから、額縁にも錫を使えば、写真と清課堂さんの空間を、つないでくれるんじゃないかと思ったんです。非常に感覚的なことではありますが、それいった理由で、ひたすら錫にこだわっていました。

 

額縁が作品の一部に

山中 

ほかにも、光をうまく透過させるための工夫として、3枚のアクリル板を挟むことになりましたよね。

荻野 

光を通す空間があると、写真に影ができたように見えるんです。たとえば、よくグラフィックデザインなんかで、文字に影をつけたりするじゃないですか。それと同じで、像にわずかなずれが生じて、立体感が出る。それがやりたくて、アクリルを入れてほしいという無理難題をまたまたふっかけてしまいました(笑)。

山中 

今回の荻野さんの写真は、額縁と合わせて、ひとつの作品という感じですね。

荻野 

写真の価格表をつくるとき、普通は、台紙の役割をもつ“マット”のみ付けた場合と、額縁をセットにした場合の、2パターンの値段を出します。でも今回は、この額縁がないと、買ってくれた方をがっかりさせてしまう可能性があるんじゃないかと心配になった。ほかの額に入れてしまうと立体感が失われるので、「ライティングのおかげでよく見えたのかな。買ってみたらそうでもないじゃん」って言われかねないと思ったんです。光の透過もこの作品の表現のひとつなので、額縁もセットにするしかない、ということになりました。

山中 

山本さんは、長年額縁づくりをされていますけど、間にアクリルをはさむのは初めだったんですよね。

山本 

最初は何を言い出すんだって、びっくりしました(笑)。正直、そんなに変わらないのに何をこだわっているんだろう、と思っていたんです。けれど、実際にアクリルを入れてみると、3ミリの隙間が影を生んでいた。宙に浮いているような立体感が出るんですよね。

私たちの仕事は、作家さんのリクエストに合わせて額縁を作ることがメインですので、まずはもらった要望にいかに応えるかが勝負、といった面があります。今回の額縁も、そういう気持ちで手がけて、なんとか荻野さんのイメージされていたものを形にできたのではと思っています。でも額縁は、長年飾って初めて現れる変化もあるので、これで完成とは言いきれない部分もあるんです。年月の経過によって、作品の色合いなどが劣化しまう恐れもありますからね。だから、私としてはまだまだ安心できません。

荻野 

今回はプリントも額装も特殊なので、僕自身、写真の劣化を防ぐために表面を蜜蝋でコーティングしています。プリントするのに銀を使っているので、空気中の硫化物と化合して、どうしても経年変化してしまう可能性があるみたいなので。どうやってコーティングしようかリサーチした結果、蜜蝋に出会いました。蜜蝋は、エジブトの壁画にも使われている素材。壁画が何千年も残っていることを考えると、かなり持ちが良いはずです。100年経ってどうなるかは、もちろんまだわからないんですけどね。

 

継承される知恵と文化

荻野 

山本さんも源兵衛さんも、もう何代も継がれているお仕事をされていますよね。だから、先代の方々が積み重ねた成功体験を、たくさん受け継ぐことができるんじゃないかと思うんです。失敗を乗り越えた数々の方法を学べるというか。それって、とってもうらやましいことだなって。今日は、そんなお話をぜひ聞きたくて、トークイベントのタイトルも『失敗の財産』になっています。

というのも、僕自身がいま、写真のプリントを探り探りやっている状態なんです。今回用いた技法はソルトプリントといって、1830年代によく使われていたもの。当時はまだ、写真技術が誕生したばかりでした。このあとすぐに、プリント技法の流行は鶏卵紙に移って、そこからまた、プラチナプリントや銀塩プリントにシフトしていった。写真技術は散らかった状態で、どんどん進化してしまいました。だから、ソルトプリントの完成形みたいなものも、ほとんどないままなんです。昔の文献や事例を紐解いても、やっぱり雁皮の和紙にプリントした人はいない。雁皮紙は、スタンダードな紙とはテクスチャも薄さも、何もかも違う。だから、シワが寄ったり、破れたり、いろいろな問題が生じてしまうんです。何度も失敗を繰り返しながら、なんとか方法を探っていきました。ひとつの“成功”にたどり着くまでの道のりは、ものすごく長いんだと実感したんです。だから、何代も続くお店の人たちは、すごくうらやましいと思いました。修行を積んで、歴史を守り伝えるのはもちろん大変なこと。それでも、先人の知恵を受け継ぐことができるのは、とても贅沢だなって。実際に、そういう環境にいらっしゃるのって、どういう感覚なのでしょう?

山本 

うちは四代やっていますけど、額縁を作り出したのは、二代目あたりからなんです。もともと、私たちの店は写真館だったので。初めは写真館で、仕入れた額縁を販売していたんです。私の祖父は洋画家でもあったので、写真館をやりながら、絵も描いて、自分で額をつけて売る、という感じでやっていました(笑)。

山中 

マルチタレントですね(笑)。

山本 

そうですね。器用な人でした(笑)。あるとき、祖父が自分の絵に合う額をつくってみようということで、額づくりを始めたのが、現在まで続く仕事になったんです。

先代が経験した失敗のエピソードで印象深いのは、父の体験談ですかね。三代目として仕事をしていた父も、作家さんからのあらゆる要望に応えながら額縁をつくっていました。そのなかには、壁一面にわたるような、大きな作品を飾るためのものもあって。父はリクエストされた寸法どおり、大きな額縁をつくったんです。すると、なんと納品先の間口を通れなかった。それでも、依頼どおりに制作したものだったので、作家さんはきちんとお金を払ってくださったんです。言われたとおりにつくるだけではなく、こちらからも気づければよかったと、父はとても申し訳なく思っていました。要望に応えることはもちろん大切ですが、それ以上のことを考えられるようにしなければいけない、と。

荻野 

それも、失敗がきっかけになって生まれる気付きですね。僕、源兵衛さんと初めてお会いしたときにうかがったお話も、とても印象に残っているんです。文化が継承される現場の匂いを感じたというか。

山中 

荻野さんと初めてお会いしたのは、あるトークイベントに一緒に出させてもらったときでしたね。そのときにお話ししたのは、私が子どもの頃の暮らしについてでした。子どもの頃は、私の家に、たくさんの親戚が働きに来ていたんです。祖母は家事、祖父は配達を担当していました。ほかにも、お米を炊くことを専門に来てくれていた人もいましたね。ひとまずうちには仕事がたくさんあるから、親族で仕事を分け合っていました。周りの旧家の人に聞いてみても、やっぱりいろんな人が出入りしていたみたいで。それがうちの場合は、親族だったという感じです。

ほかにも、同志社大学や立命館大学に通う学生が、書生さんとしてうちに住んでいましたね。確か、4人くらい。私がまだ小学校に上がる前でしたから、よく遊んでもらいました。当時はそうやって、ひっきりなしに、人が家を出入りしていた記憶があります。

荻野 

その暮らしが具体的に、何の継承になっているのかっていうのは、僕には一概に言えませんけど、すごく衝撃を受けたんですよ。源兵衛さんだったり、このあたりの旧家さんにとっては当たり前のことなんでしょうけど。何かの技術とかではなくとも、人とのつながりやコミュニケーション方法だったり、そういうものは何かしら培われていたんじゃないかと思います。

山中 

確かに、人とのつながりに関しては、当時の暮らしで培われたものがあるかもしれません。私の父が仕事をしていたとき、とくに戦争の直後は、職人も材料も足りなかった。そんなとき、先代から関わりのあった得意先の方が、うまいこと仕事をまわしてくれたり、道具や材料を手配してくれたことがあったみたいなんです。

荻野 

絶対に、そういうつながりってありますよね。

 

花街を通して見えた世界

荻野 

僕自身、“継承されること”を意識するようになったのは、花街で写真を撮るようになったのがきっかけでした。大学三年生のときから、ある置屋さんに通って、写真を撮らせてもらっているんです。芸姑さんや舞妓さんが、着付けをしたり、おしろいを塗ったりしているところだとか、裏側の部分を撮影させてもらっています。もう、通い始めて18年くらいになりますかね。

山本 

もともと知り合いがいたんですか?

荻野 

そういうのは何もなくて、本当に一見の状態から飛び込んだんですよ。僕は子どものころ、10年ほどメキシコに住んでいて。メキシコには日系社会があって、いろいろなパーティーなんかもよく開かれていました。そこには、女性は着物を着て参加していたのですが、着こなし方や所作に、どこか違和感を覚えていたんです。漠然とですけど、もっと正しい姿があるんじゃないかと感じたというか。それからずっと、着物を来た日本の女性の姿を見てみたいと思っていました。調べてみると、舞妓さんは自分の髪で日本髪を結っていて、普段から和装で過ごしていることがわかった。それで、撮ってみたくなったんです。

大学二年生の頃から、撮らせてもらえそうなところを探し始めましたが、花街に縁がある知り合いなんかもいなくて、なかなか見つからないんです。そんなときに父に相談してみると、励みになる言葉をもらえました。「京都は学生の街なんだから、無理して大人みたいなことをするな。学生らしく、正面突破でいけ」って言うんです。父は大学時代を京都で過ごした人なので、説得力もありましたね。そのときは、もうあらゆる手を尽くしてもコネが見つからなくて、どうしようもないと思っていた時期だったこともあり、父の言葉どおりやってみることにしました。

あるとき、現役の芸姑さんでホームページを立ち上げられた方がいると知ったんです。父の助言どおり「僕は学生で、写真を撮らせてもらえるところを探しています」と、まっすぐにメールを送ってみました。すると、お返事をいただけたんです。「いつか京都に来られることがあったら、お立ち寄りください」と書いてありました。いま思えば、それってたぶん、社交辞令というか……もしかすると、やんわり断られていたんじゃないかと(笑)。でも、当時はまだ学生だった。それに、メキシコ暮らしが長くて、日本語のニュアンスみたいなものにも、鈍くなっていたのかもしれません。もう、「わ〜!」ってうれしくなって、何も考えずに「行きたいです」とお返事しました。向こうも、びっくりしたかもしれませんね(笑)。それで「2週間後くらいに、京都に行くのでうかがってもいいでしょうか」と連絡をすると、「どうぞお越しください」と言ってくださったんです。さっそく、自分がそれまでにメキシコで撮ってきた写真なんかを持って、うかがいました。

しばらく女将さんとお話ししていると、「今日はカメラ持ってきているの?」とおっしゃるんです。一応持ってきたと伝えると、「じゃあ、いまから舞妓さん着付けするけど、撮っていく?」と。「いいんですか!」という感じで、もうびっくり。本当にいいのかなと思いながら、どぎまぎしつつ写真を撮らせてもらいました。撮り終えて、女将さんに「写真ができたらお見せしたいです」と言ったら、「ぜひ見せてください」と言ってもらって、その日は、当時住んでいた名古屋に帰りました。一ヶ月後くらいに、写真ができたので連絡をしてみると、「ぜひ見せて」とお返事をもらえたので、また置屋さんにうかがいました。そしたら「今日も撮っていく?」って、撮らせてもらえたんです。そのまま、月に一回撮らせてもらうことがルーティーンになっていきました。

花街をずっと見させてもらうにつれて、文化が継承される現場に、たくさん出会ったんですよ。花街には、もちろんマニュアルみたいなものはありません。だから、舞妓さんたちは、ひたすら叱られることで、いろいろなことを学び、覚えていく。舞妓さん時代から知っている芸姑さんに「最近どう?」と声をかけると、「やっと、叱られるのが1日1回になりました」って言うんです。何年もやっていても、まだ叱られるんだ、とびっくりしました。そうやって、先輩の舞妓さん、芸姑さんや女将さんたちが、過去にいろいろなお客さんとかかわってきたなかで気付いたことが、継承されているんだと思います。伝統ある花街の世界とか、何代も続く職人さんの世界とか、京都には僕が想像できないものがたくさんあるんだなって感じました。

 

職人が、アーティストの “通訳” になる

荻野 

もうひとつ、今日は山本さんに聞いてみたいお話があるんです。作品と空間をつなぐ額縁を制作するうえで、難しいことってたくさんありますよね。どんな空間にどんな作品を飾るのかによって、ぜんぜん違う額縁になってくるはず。

今回、僕の展示以外にも、KYOTOGRAPHIEのサテライト『KG+』で、山本さんの額縁とコラボレーションした展示があるんです。いろいろな写真家さんの作品に、それぞれ独特な額縁をつけていらっしゃる。普通は、凝ったフレームを使うと、どうしてもやりすぎな感じになってしまうことが多い。でも、山本さんの額縁は絶妙に作品とマッチしています。本当に、バランスをとるのがお上手ですね。

山本 

ありがとうございます。2015年に、京都写真クラブさんから、写真と額縁をコラボさせる企画をやりませんか、とお声かけいただいたんです。写真の展示は、無機質に飾ることが一般的だったので、面白い提案をいただいてうれしかったですね。参加してくれる作家さんを募集したら、12名の方が手を挙げてくださったんです。写真界の常識から少し離れた試みなので、最初は正直ためらう気持ちもありました。それでも、皆さんが「山本さんの好きにやったらいいよ」と温かい言葉をくださったので、結果的に自由にやらせてもらいましたね。その展示を、面白かったと言っていただけることが多くて。それで、またお声かけいただいて、今回のKYOTOGRAPHIEでも展示させてもらっています。

荻野 

あれは、どうやってそれぞれの額縁を決めていったんですか?

山本 

カラー写真の場合は、金や銀の、明るい色で引き締めたり、モノクロ写真の場合は、質感を工夫して、雰囲気を引き出すようにしています。あとは、和のイメージか洋のイメージかで、区別をすることもありました。“侘び寂び”の世界を感じる写真には、銀箔を使って、細いシンプルな額縁を合わせたり。洋を感じる写真は、ヨーロッパの絵画を入れるようなイメージの額縁に入れたり。ヒントやルールが何もないなかで、自分のなかに湧いたインスピレーションを具現化していくような感覚でしたね。作品とケンカしてしまっているんじゃないかと、まだまだ不安に思う部分もあるんですよ。

荻野 

すごく、額縁のよさに気づかされるような、絶妙なコラボレーションだと思います。作品と額が、うまく混ざり合っているんです。

山本 

そう言っていただけてうれしいです。作品と額縁を合わせられることをお見せできる、いい機会でした。

 

自由な表現を、現実世界に落とし込む

荻野 

今回の僕の展示の場合は、僕のほうから、素材や形状について、リクエストをさせてもらう部分が多かったですね。お願いをしたのは、錫を使ってほしいっていうことと、外側に向かって枠が薄く下がっていく、外流れの形状にしてほしいということでした。

外流れの形状にしてほしいと言ったのは、今回の作品にとって一番自然な形状だと思ったから。2015年、アムステルダムで開催された後期レンブラント展を見たときに、雁皮の紙に刷られた
銅版画の作品があったんです。写真の世界と近いものを感じたので、よく見ておこうと思いました。額装にも注目すると、外流れの額縁を使っていた。レンブラントが選んだのか、ギャラリーが選んだのか、誰が選んだものなのかはわからないんですけどね。そのとき僕が気に入ったものは、全部外流れの形状だったんです。それはきっと、雁皮に刷られた作品に、自然と溶け込んでいたから。

山本 

外流れにしたいとご要望をいただいたので、錫をはめ込む溝の位置に合わせて、角度を微調整しながらつくっていきました。今回は、荻野さんが素材や形状をリクエストしてくださったので、つくり始めてしまえばスムーズでしたね。いかに美しく見せるか、ということを考えるのに集中できました。

ちなみに、今回の作品たちは、下のマット幅がわずかに広くなるよう額装しています。つまり、作品が中央よりも少しだけ上になるよう配置しているんです。マットの幅は、それぞれの作品にとって一番良いバランスを探りながら決めていきます。これも作品と空間の“間”のひとつですね。

山中 

額縁づくりには、空間とのバランスと、作家さんの想いの両方が影響しますよね。それって、私が関わっている工芸にも同じようなことがあって。作家や職人の自己表現と、お客さまの満足度、どちらもうまく落とし込まなければいけません。だから自然と、アーティストの想いをうまく咀嚼して、良い落としどころを見つける、通訳のような立ち位置にもなっているんでしょうね。

荻野 

こういった方々に、僕ら作家は支えられています(笑)。好き勝手やっていることを、うまく現実世界とつなげていただくというか。そういった存在がいてくれると、本当にやりやすいんです。この人たちと一緒なら、心置きなく好きなことをやらせてもらえるって、安心する。きっと、良い感じにフォローしてくれるだろうって。今回も、僕が「こんなのがいいです」って要望を伝えたら、この二人ならどうにかしてくれるだろうなって思ったんです。お二人の存在に、本当に助けられました。

 


 
山中 雅二

山本 雅二 / やまもと まさじ

有限会社ヤマモト 代表取締役社長(四代目店主)
屋号:ガクブチのヤマモト(1905年創業)
主に美術界のオリジナルフレームデザイン・制作・販売を行う。

1988年~精華大学 美術学部 日本画学科~1992年卒業
1992年~東京で額縁職人の世界へ就職 一から作り上げて行くなかで疑問を持ちながら基礎を学ぶ
1995年~ヤマモトで業務しながら先代の追及する額縁作りを伝授し新たな見せ方を探求
2005年7月 代表取締役 就任
経営全般、営業、制作指導、デザイン、企画等あらゆる業務をしながら現在に至る。

 

荻野NAO之

荻野NAO之 / おぎの なおゆき

http://www.naoyukiogino.jp/
東京生まれ、メキシコ育ち、京都在住。
KYOTOGRAPHIEオフィシャルフォトグラファー。
名古屋大学理学部卒業。 第一回日本写真家ユニオン大賞。

主な参加フェアー
・イギリス:Photo London (2015)
・オランダ:Unseen Photo Fair Amsterdam (2015)

主な参加フェスティバル
・ウズベキスタン:Tashkent International Photobiennale (2008, 2012 ,2014)
(招聘作家作品展、国際写真コンテスト審査員、Master Class講師)
・中国:Pinyao International Photography Festival (2007)

写真展
国内外多数(アメリカ、メキシコ、日本、他)

主な出版物
・英語版写真集 「A Geisha’s Journey」(2009)
・フランス語写真集 「Mon journal de geisha」(2008)
・日本語写真集 「Komomo」(2008)

 

山中 源兵衛 / やまなか げんべい

1969年 京都市生まれ
2007年 七代山中源兵衛襲名
江戸時代創業の錫・銀・各種金工品の専門店にして、現存する日本最古の錫工房「清課堂」当主。 茶器、神具、飲食器などの伝統的錫製品を製作する傍ら、現代感覚にあふれた金工品のデザイン、店舗敷地内にあるアートギャラリーの運営にも携わる。

江戸時代創業の錫・銀・各種金工品の専門店にして、現存する日本最古の錫工房「清課堂」当主。 茶器、神具、飲食器などの伝統的錫製品を製作する傍ら、現代感覚にあふれた金工品のデザイン、店舗敷地内にあるアートギャラリーの運営にも携わる。


 

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